「欲求」と「幸せ」を分けて理解する

 

欲求と好感。この2つは、好きなものを語るときにほぼ同列に語られるものかもしれない。だがこれは全く違うものだ。 

欲求は「もっと欲しいと思う気持ち、未来にそれを得ることへの期待」である。

一方、好感は、「実際に得たものに対する快感」だ。自分の幸せに直接結びつく感情は好感の方だ。

自分はこの2つを決定的に自分の中で分けて理解できたことで、自分の中にある依存症的な欲求を見分けて対処する能力が上がった。

 

ネット依存症など、依存症についての研究をまとめた書籍「Irresistible」には、興味深い実験が載っている。

 

僕らはそれに抵抗できない

僕らはそれに抵抗できない

 

 

実験用のラットは砂糖水への欲求をあらわにしていたし、砂糖水を得られると、口を舐め回すという砂糖水を好いていることがわかる行為をしていた。そのラットに対して、ドーパミン阻害薬を注射する。

欲求の源であるドーパミンが阻害されると、ラットは確かに砂糖水を求めなくなった。一方で、いざ係員に砂糖水を渡されると、今までと同様に口を舐め回す。

欲求が阻害されても、好きなものへの好感は失われなかったのだ。

 

上記の実験からは、「欲求」と「好感」は別の感情であり脳の働きであることがわかる。

ドーパミンが阻害されたラットとは逆に、依存症になっている人間は、依存対象への「好感」はもう失われ、それどころか嫌悪感すら感じているのに「欲求」だけが残っている場合がある。

 

人生を破壊する薬物を好きだと思わなくなっても、脳はまだ薬物を欲しがるのだ。その薬物が過去に心理的な希求を満たしてくれたことを脳が覚えているせいで、渇望が消えないのである。同じことが行動にも当てはまる。フェイスブックやインスタグラムで時間を浪費することにつくづく嫌気がさしても、そうすることが嬉しかったときと同じように更新したい気持ちは残る。

 

自分がTwitterなどに抱いている気持ちは完全にこれだなと思った。初めてTwitteriPhoneで触った時のUIの滑らかさ、色々な人をフォローして読むことで得られた刺激、その「良い記憶」がずっと残っているのだ。だから、散々Twitterのやりすぎを問題だと思って嫌になっていたとしても、ドーパミンは最初の記憶と同じように脳内で出てしまい、やりたくなる。

 

上記を理解していると、欲求がある時に、「対象物をまだ好きだと思っているか?それとも、好きではないのに、残存した脳内記憶から惰性で欲しているだけではないか?」と振り返ることで、好きでもない不本意なことに時間を割くことを避けられるのだ。

そうなった時に次に問題になるのは、本当に「好き」かそうではないかの見分け方だ。

「自分は心地よさを感じているか?」「本当は自分のためになっていないという焦燥感を覚えていないか?」という2点を、惰性ではなく毎回心に聞いて判断するすることがいいのかなと思う。その際に、頭で考える部分も必要だけど、体の感覚として心地よいかという部分もなるべく感じることが正しい判断に結びつくのだろう。

今の所、自然豊かな場所を散歩するとか、温泉に入るとかは上記2点をクリアしている活動なのでしばらく楽しみ続けるだろう。とはいえ毎回心と体に問うて、本当に心地よいうちだけ楽しみたいなと思う。