「自分らしく生きる自由」とは何か。 健康管理社会を描く「ハーモニー」 その2

ハーモニーの世界観においては、健康管理社会の一環として依存物質を取ることは厳しく禁じられている。酒やタバコに至っては、医療分子による市民の管理をする「生府」(=健康管理主義の政府)下での流通は非合法なもの以外無いし、カフェインの摂取にもかなり制限がかかっている。28歳になったトァンは「螺旋監察官」として紛争地で活動しているが、それは「酒やタバコを手に入れられる程に自由な環境」を追い求めてそこまで行き着いたのだという。
 
ここも自分とは解釈が違うと思ったポイントの一つだ。(念のためにいうが、その違いを考察していくのが面白いし、解釈が違うことについて全くネガティブな意味はない)
 
自分にとって、依存性のある媒体(Twitterとかスマートフォン本体とか)で時間を溶かしている自分は「本当の自分ではない」「依存対象に自分の意思が操られている」と感じる。
 
また、自分のスマホ依存を克服するために、一般的な依存症の本も多数読んだ。その中で特に行動への影響が大きいアルコール依存症ギャンブル依存症などの罹患者は、「アルコールやギャンブルに溺れている時の自分は本当の自分ではない」と感じているように手記などから読み取れる。(依存症は「否認の病」とも言われているので、この自己認識事態が病理という一面もあるとも思う)
※本や記事を読んで勉強しているものの、わたしは依存症治療領域の専門家ではないので、間違った記述があればご指摘ください。訂正いたします。
 
私や、他の依存症状に苦しむ人たちにとっては、依存対象の物質や機会を制限された方が「自分らしく生きている」「人間としての自由を手に入れている」と感じられるのだと予想する。たとえそれが「健康を監視する社会」による押し付けであっても、だ。
 
だから、「酒やタバコを自由に使える環境の方が人間として本当に自由だ」という描き方はかなり挑戦的で面白いなと感じた。(勿論、酒とタバコの禁止は健康監視型社会の象徴として描かれてるだけで、他にも不自由な要素は多数あるのだが。)酒やタバコ等の物質に依存症状が無く、完璧にコントロールして嗜める人にとっては、それは正しい解釈なのだと思う。だが、依存症は誰にとってもなる危険性があるものだ。
 
ちなみに「自分らしく生きられる」とは何かというとそれも結構難問だ。個人的には「長期的な目標に向けて有効な努力ができている状態」とか、「『飾らないけど堕落もしていない自分』でいられる相手と時間を過ごしている状態」「会話やアクティビティをとおして自分の新たな一面を発見できる状態」などだろうか。結局、自分が想像できる範囲での理想状態が実現されると「自分らしく生きられているな」と思っているのだ。「何を理想の自分自身と置いており現状それと比べてどう解釈するか」によって、「自由かどうか」や「自分らしく生きているかどうか」の答えも全然違ってくるよ、ということだと理解している。
 
「生府」が健康情報やプライバシーを握っているわけではない民主主義社会である現実世界でも、依存物質への規制は厳しくなりつつある。これにより、多くの人がより「自分らしく自由に生きる」世界に近づいていると私個人は思っている。